こんばんは。ヴィスタリアです。
月組「エリザベート」大劇場千秋楽ライブビューイング(LV)の感想の続きです。
トート・エリザベート・フランツについて書いていたら5000文字を超えてしまいましたので、まずはトートとフランツについてです。
月組「エリザベート」は2人の男の愛と1人の女の自立と自我の物語
「エリザベート」の副題は「愛と死の輪舞(ロンド)」です。
この副題とトート=“死”というキャラクターから、ヴィスタリアは「エリザベート」を愛(フランツ・ヨーゼフ)と死(トート)が1人の女(エリザベート)を巡って争うストーリーだと解釈していました。
別作品ですが「グランドホテル」で「不倶戴天の敵同士、愛と死がふたたび見(まみ)える」というセリフがありますが、「エリザベート」こそ正にそうだと思っていたのです。
しかし月組の「エリザベート」は愛と死の物語ではないと感じました。
2人の男の愛の物語であり、女が自由と自我を追求しようとした物語だと思いました。
”最後の証言”の場面で亡霊たちはこんな歌詞を歌っています。
「まだ見えぬエリザベートの愛
黄泉の帝王と皇帝フランツ
2人の男が1人を愛した…」
これまではあまり気にせずに聞いていたこの歌詞がすとんと腑に落ち、「開演してから見てきたのは2人の男の愛の話だったんだ」とヴィスタリアは思いました。
1人目の男 トート/珠城りょうの深い愛
2人の男の愛と書いてきましたが、そう思ったのはなんといってもたま様トートが見せた、エリザベートへの深い愛によるところとが大きいです。
たま様の作り出したトートは新しいトート像だとヴィスタリアは思いました。
たま様トートはエリザベートを死に誘いますが彼女の命を奪いたいのではなく、深く広い愛をエリザベートに向けていて、”彼女をすべての苦しみから救いたい、彼女に安寧と愛を与えたい”と思っているのだと感じたからです。
たま様トートはスケールの大きさやスタイルのよさが星組「エリザベート」のマリコさん(麻路さき)に似ているかしら?とLVを見るまでは思っていたのですが、たま様トートは誰のトートにも似ていませんでした。
こういうトートがあるんだと目を開かされました。
たま様トートはあたたかい、包むような愛でエリザベートを守ろうとしているし、エリザベートの愛が自分に向けられるのを待っているのだと思いました。
折に触れてエリザベートの目の前に現れ、手を伸ばし彼女に触れ口づけようとする仕草の一つひとつに妖しさや冷たさよりもエリザベートへの愛がにじんでいると思いました。
特に印象的だったのがエリザベートがフランツ・ヨーゼフに乞われてハンガリーを訪れ後、ハンガリーの革命家たちが「女狐め!」と怒りに駆られて拳銃を取り出してみせるシーンです。
トートは革命家たちをけしかけるのではなく、ウィーンへ行くように背中をおします。
そのときのたま様トートの手の動きがまるで、エリザベートを彼女が望まない死(痛み)から遠ざけ守っているようだとヴィスタリアは感じたのです。
生きていることは辛く厳しくて傷つくことばかりで、そこから愛する人を救って真の自由がどういうことなのかを伝えたい、それこそが愛なのだと、たま様トートは訴えているのではないでしょうか。
だからなのか「死は逃げ場ではない」とエリザベートを突き放すセリフが深く聞こえました。
そしてエリザベートが死を受けいれることがトートに愛を向けることなのだと、「エリザベート」の物語をすんなりと見ることができました。
2人目の男 フランツ・ヨーゼフ/美弥るりかのまっすぐな愛情
ヴィスタリアがるりかちゃんのファンだからかもしれませんが、初めてフランツという人物の魅力がわかったような気がしました。
たま様トートとは違う形で、地上の男ができうる最高の形(皇帝という物質的に恵まれた形で)でエリザベートを愛したのがフランツではないでしょうか。
るりかちゃんのフランツはゾフィーという強大で畏怖すべき母に育てられ、帝王学でガチガチに締めつけられ、その枠の中でしか生きることができなかった男性だとヴィスタリアは思いました。
まるで矯正されているようです。
フランツはどこまでいっても“こうするべきだ”と教え込まれた枠のなかにいて、そのなかからシシィを愛しているように見えました。
嫁姑問題に挟まれたフランツの態度を見ているときにこれを感じました。
大切な愛するシシィの話に耳を傾けて真摯に聞くのだけれど、フランツの取る対応はあくまでも皇帝の枠が優先だからです。
また婚礼の場面で「皇后らしくいるんだ。みんな見てる」とシシィに諭すとき、フランツはシシィのこと全然見ていません。
シシィを守らなくては、という愛情よりも皇帝らしく振る舞うことが優先しているようです。
そう思ってフランツを見ると「扉を開けてくれ」のシーンがものすごく沁みました。
(ヴィスタリアがるりかちゃんファンでるりかちゃんに言われたら即座に扉を開けちゃうとかそもそも開けて待っているとかいうことではなく)
シシィの心がフランツに向いていなくても、フランツはシシィの愛と癒しを必要としているし、傍にいてほしいと訴える切実さが痛いほど伝わってきました。
フランツにとって皇帝として生きるという嵌められた枠はあまりにも当然のこと、他の選択肢はありません。
それと同じようにシシィを愛すること、魂の片割れとして求め続けることもまたフランツにとっては当然のことで、とにかくシシィが大好きで大好きで仕方ないのです。
壮年〜老年時代のフランツは放浪の旅を始めたシシィに 「帰って来てほしい」「傍にいてほしい」「支えてほしい」と訴え続けています。
言葉と心を尽くすフランツですが(物質的にもものすごくシシィに尽くしシシィが何不自由なく、幸せを当たり前のこととして享受できるように手を尽くしたのではないかとLVを見ていて思わせられました)、しかしどんなに語りかけてもシシィに自分の言葉は届かず、癒やしにも支えにもならないことをわかっていたのかもしれないと、ヴィスタリアは思いました。
ルドルフの棺に泣き縋るシシィを支えようとするときも、夜のボートにしても、求めても帰ってはこないのがわかった上でフランツはただシシィを支えたくてそうしているように見えたからです。
(具体的にこの仕草、この表情と書ききれなくてすみません。なんせLVの1回しか見ていないので…しかしそう見えた、という記憶はあるので書いておきます。
これは劇場なり東宝千秋楽のLVでもう一度見て確認したいです)
それでもまっすぐに、変わらぬ愛をフランツはシシィに示し続けた、それを感じさせてくれたるりかちゃんのフランツでした。
るりかちゃんフランツでよかったと思ったところがたくさんあります。
まず若きフランツの謁見の場での葛藤は、心の揺れと苦しさが見ていて息苦しくなるほどでした。
「許可する」も、背を背けての悲痛な「却下」も、皇帝として振る舞うよう矯正されるフランツの苦しさが現れていると思いました。
そしてバートイシュルのお見合いの場面は、噂にはきいていましたがシシィのことを見つめすぎです。
一目惚れ、運命の出会いだったんだねというのがるりかちゃんのフランツを見ているとよくわかりました。
でも思えばこの最初の出会いからプロポーズの言葉は「オーストリアの皇后になってほしい」であって、フランツ自身の感情よりも皇帝という立場が優先しているようです。
マダム・ヴォルフのコレクションたちを心底軽蔑し汚いものを見るような目で蔑むのもたまりませんでした。
拒否して拒否して、でも誘惑されて、最後の最後でマデレーネに強引に口づけるのにはどきどきしました。
シシィのことは愛しているけれどそれとこれとは別でいろいろあったのね、と思いながら見ました。
ところでヴィスタリアはるりかちゃんの声の低さをこれまで意識したことなく、ただ大好きなるりかちゃんの声として受け止めていました。
今回休演があったからか改めて声や音域を意識してみると低い音域の方が歌いやすそうで、高い音域だと声が辛そうなときがありハラハラしました。
東京公演でどうか最後まで無事に舞台立たれることを願ってやみません。
ルキーニも言っていたように東京で待っています!