こんばんは、ヴィスタリアです。
宙組梅田芸術劇場「FLYING SAPAのライブ配信を見ての独断と偏見と偏愛に満ちた感想です。
また作品の内容に触れていること、作品について辛めというか賛否両論であれば否にあたるであろうことも書いていることもお断りしておきます。
作品、上田久美子先生がお好きな方、ごめんなさい。
「こういう受け止め方をする人もいる」と読んでいただければ存じます。

「FLYING SAPA」残された希望はどこにあるのか
作品の内容、モチーフとなったもの、個人意識のデータベース「ミンナ」の命名などを現在の同調圧力が強い社会に重ね合わせて考えられることはたくさんあるのですが、
中でもラストシーンのその後を考えずにはいられません。
以下、プログラムを参考にラストシーンの内容を書いています。
総統01/汝鳥伶の統治時代が終わってから2年が経ち、記憶を取り戻したオバク(サーシャ)/真風涼帆は艦隊FLYING SAPAを率いて旅に出ようとしていた。
水星ーー太陽系をも離れ安住と平穏を捨てて「どこまでも難しい旅を続けていく」決意をしたオバクに水星住人の半数が着いていくことを選んだ。
副艦長はノア/芹香斗亜。
乗船者の中にはクレーターSAPAで出会った人々や総統01に仕えていた者もいる。
テウダ/松風輝は息子を一人で乗せ、自分は水星に残ることを選び見送りに来ていた。
彼らの左手首には生命維持装置「へその緒」が埋め込まれたままだが、もはや緑色の光は放ってはいない。
一方、水星事務局長の仕事についたミレナ/星風まどかは仕事の多忙さを理由にサーシャからの旅の誘いを断っていた。
そこへイエレナ/夢白あやが突然訪れ「交代よ」と告げる。
「あなたの地位を奪いにきたの。サーシャと行きたいでしょ。
私、子どもが生まれるの。危険な冒険はやめにした。
ここでノアとカビ臭い民主主義とやらを埃を叩いて蘇らせてみせる」
ミレナはサーシャの元へ駆けつけ、2人はともに希望があると信じ、FLYING SAPA号へ乗り込む。
副艦長のノアはしかし乗船せず、サーシャに背を向けたまま手を振り、一言だけ告げるーー「Have a nice trip」
旅立つFLYING SAPA号をノアとイエレナが寄り添いながら、テウダが大きく手を振って見送っていた。
サーシャとミレナはようやく思いを通じ合わせますしラストシーンの絵は美しく見えますが、
「FLYING SAPA号」で旅に出る者たちを待っているのは前途洋々の明るい未来や希望である保障はどこにもなく、
むしろ明るい要素・根拠はほとんどありません。
どの星にたどりつけるのもわからない、生命維持装置「へその緒」は光を失い機能していないようだし、
ある意味ゆるやかな自死を選択している集団とも言えるのではないでしょうか。
イエレナが「子どもができたの。危険な冒険はやめにした」と水星に残ることを選んだことはつまり、
旅は危険なもので子どもを生み育てられる環境の不確かさを示しています。
また水星事務局長という肩書で仕事をしているミレナはデータベース「ミンナ」に集積された皆の思考を受容したままの存在であると思われます。
ミレナがその状態から解除され開放された描写はどこにもありません。
ミレナやスポークスパーソン101の明るい笑顔や穏やかさに忘れてしまいそうになりますが、
ミレナが事務局長として水星をとりまわしていることは
数多の個人の記憶や意思が唯一の人物に集積された、その者が支配をする総統01が目指した状態=ディストピアは終わっていないとも言えます。
そのミレナに「交代よ」と告げたイエレナがノアと目指すのは民主主義の再生です。
現状、人間は民主主義と自由経済よりも優れた、できる限り多くの人が幸せになれるシステムを知りません。
戦争はなくならないし格差や分断は大きくなっていくことに危機を感じていながらもいま手にしてる最上のシステムの中で
なんとかよりよい世界を取り戻そうとすることを示しているのがこの結末であり、希望はむしろ水星に残されていると思いました。
水星に残る選択をしたノアの名前からノアの方舟を連想するのも自然な流れでしょう。
ところでイエレナが妊娠した子どもはノアとの子で、2人は寄り添っているわけですし幸せになれるんですよね。
前記事でも書きましたがこの作品は性暴力を示唆する場面、自己破壊的な性衝動、そして情緒を削ぎ落とした性的な交わりが描かれています。
そんな物語の結末に安全で平和(と思われる)世界を象徴するように妊娠がもたらされるのは明るい要素、一筋の光だとは思うのです。
しかし影の部分が宝塚歌劇らしくない点で強烈すぎたのか、光を見ると影が表裏一体であることを意識せずにはいられず、妊娠を素直に祝福して見ることができませんでした。
考えすぎかもしれません。
またノアが副艦長と呼ばれていながら、つまりFLYING SAPA号に乗ることになっていながら、
サーシャに何も告げずに船から下り背中しか向けないことが引っかかりました。
おそらくノアはイエレナとの間に子どもができたことさえもサーシャに伝えていないーーおそらく何も明かしておらず、それは彼なりの嫉妬の表れ、ある種の仕返しだと感じました。
幕切れの希望を胸に旅立つサーシャとミレナを見送るノアとイエレナ、
そして息子を1人で行かせることにしたテウダの絵は美しいのに、
見ている自分の胸はざわついて仕方ありませんでした。
クレーターSAPAで息子のために苦労し祈り、包み込むような愛を見せていたテウダの選択にも違和感を感じました。
可愛い子には旅をさせよといいますがFLYING SAPA号の旅はあまりにも先が見えないものだからです。
日生劇場で自分は観劇するか
ここに書くのはいま、ヴィスタリア個人が抱いた思いであって、時間をかけて考えているうちに変わるかもしれません。
宙組さんをこの目で劇場で観たいという思いはあるのですが、ライブ配信を見終えて「東上公演は見ない…かな」というのが胸に浮かんだ偽らざる思いです。
質の高い照明・音楽・装置・衣裳といった総合芸術としての完成度の高さは宝塚歌劇だからなせた部分もあると思いますし、
宝塚歌劇らしさを極限まで排除した上田久美子先生の挑戦とそれを許容した劇団の懐の深さと幅の広さはすばらしいと思います。
しかし宝塚歌劇という枠をはずした分だけ作品そのもの、脚本そのものに注視にすることになったのですが、
脚本に新しさや「ぜひもう一度見たい」という深みなどを感じることができず「1回見ればいいかな…」と思ったのです。
上田先生が作品そのもので勝負をされたからこそ湧いた思いで、いつもの宝塚歌劇らしいダンスナンバー、主題歌、フィナーレなどがあれば思いもしなかったでしょう。
むしろ宝塚歌劇で剥き出しの殺戮も性的被害を連想させるものも情のない性交も見たくないと、
はっきり拒絶する気持ちが自分の中にあったことを初めて知りました。
外部の舞台、映画、小説などではまったく気にしないのですし、たとえば「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」の原作映画は暴力的・レイプシーンもありますが気にせず見られますし好きな映画ベスト5に入るくらい作品が好きです。
そして「ONCE…」を宝塚で見ると原作で「おもしろい」と感じたものが削がれていると感じましたが、原作は原作、宝塚は宝塚として楽しく観劇しました。
どの作品とは言いませんが宝塚歌劇を観劇してオリジナル作品の脚本のレベルがあまりにも低くて、
生徒さんに申し訳なさを感じつつ1回見れば十分かな…と思ったことはありますが、今回初めて積極的に見たくないと思ったかもしれません。
この作品に対する感想の盛り上がり具合を見ると自分は少数派なのかもしれないと思いながらこの記事書きました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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