おはようございます。ヴィスタリアです。
トップスターみりおちゃん(明日海りお )の退団公演「A Fairy Tale-青い薔薇の精-」を観劇しました。
いつものヴィスタリアの独断と偏見と偏愛に満ちた感想ですが1回観劇しただけのファーストインプレッション的なもので、幸運なことにあと何回か観劇できそうなので理解が深まったら再度書くかもしれません。
みりおちゃん、はなちゃん(華優希)はじめ花組生の熱演はすばらしいものでしたが、作品そのものにに対しては辛口の感想になりますし、作品の内容にも触れております。
「A Fairy Tale-青い薔薇の精-」は植田景子版「エリザベート」か
最初に思ったことは植田景子先生はハッピーエンドの「エリザベート」を作ろうとしたのかなということでした。
ヒロインシャーロット・ウィールドンの幼少期から結婚と離婚、そして老年時代までが描かれていますし、ディティールが「エリザベート」のシシィに通じるのです。
◆子ども時代は想像力豊かで、自由に育った
(シシィは「鳥のように自由に空を飛べるなら」と自由を讃える詩を書きつけ、シャーロットは空想を描きとめるスケッチブックを抱えています。)
◆大人になる象徴として歯を見られる
(シシィは姑の皇太后ゾフィーに「歯が黄ばんでいる」と無理矢理に口を開かされ、シャーロットは精霊たちが乳歯が残っているかを確認する際に無邪気に口を開いてみませす。)
◆自身のアイデンティティと周囲の環境が相反し、折り合いをつけられず孤立する
(シシィは自由を求める精神と宮廷生活のしきたりとが衝突し、シャーロットは自身の 想像力と仕事を持ちたいという志が理解されません。)
◆結婚生活は不幸なものとなり夫が浮気をし、精神の均衡を危うくする
(「エリザベート」では精神病棟を慰問するシシィが患者のヴィンディッシュ嬢と魂で触れ合うような場面があり、シャーロットは自身が心身の健康を損ないます。)
また喪服や下着姿といった衣裳もシシィとシャーロットのイメージが重なります。
「A Fairy Tale」はシャーロットの幼年から晩年までが描かれているだけあってシャーロットの視点で見るともっとも理解しやすいような気がしますが、
その一生の描かれ方がシシィほど感情を刺激させられ思いを馳せたくなるものであるかは疑問を抱かずにいられません。
「私だけに」や一幕終幕の圧倒的な美しさを誇るような見せ場があるわけではありませんし、
ていねいに描かれているというよりダイジェストのようで、最後のシーンでエリュに語りかけるシャーロットの言葉と演技がすばらしいだけにもったいなく感じました。
また一本物の「エリザべート」を咀嚼しなおしハッピーエンドにして描くには1時間半は短く、さまざまなテーマやエピソードを盛り込みすぎているように思いました。
そのわりに描いてほしいものが描き切られていなかったことに物足りなさを感じました。
シャーロットにエリュが見えなくなってしまう場面はもう少し時間を割いてほしかったですし、
エリュがなぜハーヴィーに近づいたのかは語られるべきだと思いますし、
シャーロットの母フローレンスの結婚生活がどのようなものでどのように亡くなり、庭師ニックにどのような感情を抱いていたのかは見せてほしかったです。
そして歌詞にある「お伽話の終わりがハッピーエンド」というわりにはシャーロットの人生は辛いことが多く、事故により片足が不自由になるエピソードが本当に必要だったのか?疑問に感じました。
(シシィが息子ルドルフに先立たれたことのメタファになっているのかもしれませんが)
植田景子先生の作品を思い出すと娘役さんに対して温度が低いといいますか、役に愛を感じないことがあるのですが(たとえば「ハンナのお花屋さん」が作品の完成度はともかくとして、ヒロインのミアがトップ娘役にふさわしいものだったのか疑問です)、そういうことを思い出してしまいました。
この作品は「エリザベート」の植田景子バージョンか?と書きましたが、もう一つ思い出す作品があります。
他ならぬ植田景子先生の「ハンナのお花屋さん」です。
・舞台はロンドン
・花と絵本が重要なモチーフになっている
・一度別れたヒーローとヒロインが再開を果たす
これらの共通点を思うと今作は「ハンナのお花屋さん」の別ヴァージョンと言えるのかもしれませんが、二匹目のドジョウとはならなったのではないでしょうか。
「ハンナのお花屋さん」は少なくとも話についていけなくなったり想像力で補完しながら見ることは強いられませんでした。
エリュもまたハッピーエンド版のトートだとしたら
「エリザベート」のシシィとシャーロットの最大の共通点は少女時代にこの世のものではない存在(黄泉の帝王トートと薔薇の精エリュ)に出会い、一生を通じて離れがたく忘れがたく結ばれていたことでしょう。
シシィがシャーロットと重なるようにトートもエリュも現実にありえない存在という点では通じるものがあり、
舞台の幕が下りる前に白い衣裳で一人セリ上がっていくエリュ はトートを連想しました。
しかしエリュという役がどうもよくわからないのです。
みりおちゃんの繊細かつ緻密に作り上げられた演技、すばらしい歌、まさに奇跡のような美しさ、衣裳だから成立しているのであって、脚本におけるエリュのストーリーの描き込みが浅くて立ち上がってこないように思いました。
たとえば黄泉の帝王トートが黒天使たちにかしずかれていても孤高と孤独の高みにいる中でエリザベートを求め続けるというのに対し、
エリュは愛と親しみのある精霊たちに囲まれていて楽しそうだったことも意外で、孤独ではないからこそつエリュにとってシャーロットでなくてはいけなかったことがもっとていねいに描かれている場面があったらよかったのに…と思いました。
宝塚GRAPH11月号のみりれい(明日海りお・柚香光)のTalk DXではこんなお話があります。
エリュがなぜハーヴィーの前に現れたのかという部分もきちんと説明はされていなくて、お客様にゆだねられている
(エリュは)人間に対する特別な感情はないし、ニックおじさんに対しても別に。
想像にゆだねられるのと想像力で補完するのは違うと客席でよく思うのですが、エリュがなぜハーヴィーを選んだのかニックおじさんのエピソードと絡めて描いた方が作品はわかりやすく味わい深いものになったように思います。
植物を「金の生る木」と金儲けの道具にしているヴィッカーズ商会には憤慨している精霊たちがニックが庭を丹精していることになにも思わないというのもふしぎです。
稀有なトップスターの卒業公演であえて男役ではない役を振ったということも含めてエリュの物語をもう一歩魅力的なものに深めてほしかったと思うのです。
これに関してはトップお披露目公演が「エリザベート」だったみりおちゃんの退団公演でハッピーエンドの「エリザベート」を、という思いが空回りしているように感じました。
想像にゆだねられることと想像力で補完することの違い
見る側の想像にゆだねられる作品というのはありますし、想像をかきたてられる作品を見られることは幸せでもありますが、
ときに客席で想像力で補完しながら観なければならないのは演出家のひとりよがりがあるように思えてかなりしんどいです。
月組「夢現無双」も補完しながら見る必要がありましたが、原作という立ち返るべき確かなものがありました。
しかし今作は植田景子先生の創造したワールドのお話なので説明されていないものは立ち返るものがないので想像で補うにも限界がありました。
全てをここに書くにはル・サンクの脚本を参照した上でするべきことになると思うのでしませんが、思いつく限り挙げてみますね。
◆精霊は人間に見えない?
精霊は人間たちには姿が見えないという設定のはずですが、ヴィッカーズ商会でエリュが持っている「A Fairy Tale」の絵本も人間たちには見えないのでしょうか。
では同じ場面でハーヴィーのデスクに思い思いに触れたりしている精霊たちの場合はどうなるんでしょう。
本筋とは関係のないことなのかもしれませんが矛盾があるようでひっかかり、「精霊の力で怪しまれないようにうまいこと消したり出したりしているのだろう」と想像しました。
◆謎の老婆とMysterious Lady、そして女神デーヴァ
想像力を広げにくかったのが謎の老婆とMysterious Ladyは同一人物なのかということです。
同一人物だとしたらなぜ最後の場面で一緒に出ているのかがふしぎで、分身なのかな?と想像しました。
そしてMysterious Ladyはエリュに青い薔薇の精になるよう呪い(?)をかけた女神デーヴァとも同じ人物なのでしょうか。
デーヴァ様はエリュにきつい罰を与えているわりに忘却の粉の効力が切れていていることを容認したり、
Mysterious Ladyだとしたら人間と精霊ーーエリュの仲を取り持つようなことをしているのはなぜなのかがわかりませんでした。
デーヴァ様がエリュに対して特別な思いを抱いていて、たとえば嫉妬からくる意地悪でエリュを悲しみの青い薔薇の精にしたものの、エリュとシャーロットの繋がりには敵わないと悟った…というようなエピソードがあればまだわかるのですが。
◆ウィールドン家の庭が枯れたのは環境汚染なのか、精霊が去ったからなのか
ウィールドン家の庭に薔薇が咲かなくなった理由がニックが去った=精霊たちが住わなくなったであればすんなりと納得できます。
しかし最初は「精霊が住まないところに花が咲かない」と言っていたのがいつのまにかロンドンの産業の発展の代償としての環境破壊、水質汚染になっていることに混乱しました。
エリュたち精霊のアドバイスで水草を植えて水質改善によりウィールドン家の庭の環境は改善しますが、そこに再び精霊たちが住うかどうかが描かれていないので、
では「精霊と庭のエピソードは一体なんだったのか」と思ってしまうのです。
座付き演出家の先生方には観客の想像に委ねるというとき、演出家や作り手の思い込みや独りよがりがないか、今一度考えた上で作品を作って上演してほしいと思いました。
以上、ヴィスタリアの1回目の観劇の感想でした。
再度見て気づくこと、わかることがあったら再度記事にしたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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