おはようございます。ヴィスタリアです。
雪組「fff/シルクロード」を観劇してきました。
1階後方サブセンS席という見やすいとは言いにくい席でしたが、チケ難の中でどうにか手にできた唯一のチケットでした。
予習をあまりせず心のままに見たので気づいていなことなどあるかもしれません。
またスルメ系の作品だとも思いましたが、
とりあえず初見の独断と偏見と偏愛に満ちた感想を書き残しておきます。
これからご覧になる方も多くいらっしゃるかと思いますが、
作品の内容・結末や謎の女/真彩希帆の正体に触れています。
上田久美子先生の演出が可能にしたの
人物相関図を見たときに果たして90分に収まるのだろうかと危惧を抱きました。
・ルートヴィヒの少年時代、青年時代がいる
・かつ、人生のそれぞれのステージで関わる人物が大勢いる
・さらにルートヴィヒよりもうんと先に亡くなった人物もいる
エピソードがぎゅうぎゅうに詰め込まれて細切れのダイジェストになるのでは?と抱いた危惧だったのですが、
それは杞憂でした。
ルートヴィヒ/望海風斗の半生とフランス革命後のナポレオン/彩風咲奈が中心となったヨーロッパの情勢が強弱をつけながら描かれ、
とりまく人々のエピソードが効果的に散りばめられています。
それを可能にしているのが舞台機構の駆使で、
盆は回りセリは上がって下がってまた上がりのフル稼働で空のオケピさえも舞台機構として活かされています。
ときに本当のオーケストラボックスになり、
ときに暗闇となりときに底のない深淵となるのはとてもおもしろかったです。
これまでの舞台機構フル稼働NO.1は謝珠栄先生の「凱旋門」と思っていたのですがそれを遥かに超えるものでした。
そこにセットの転換と映像の投影も加わって、
時間の早送りもスロー再生も時間と場所の移動も自由自在に表現され、
作品のテーマに向かって描かれるべきものがクリアになり引き込まれていきました。
またこの描かれているものの情報量が多いのがスルメ系と思わせる所以です。
・ルートヴィヒの生い立ちと難聴という苦難
・ルートヴィヒの叶わなかった恋たち
・ナポレオンの台頭と転落、そして自由主義的なルートヴィヒの立場の変化
・ゲーテ/彩凪翔とナポレオンの対峙
・ゲーテとルートヴィヒの邂逅
・ナポレオンが描いた理想
・ルートヴィヒが第九を生みだした思い
見逃しているもの、気づいていないものも多そうです。
舞台が進むにつれてドラマチックに展開していくというよりも、
強く鮮やかな光を放つようなエピソードたちがうねりを帯びて終幕へと盛り上がって歓喜の瞬間を迎えるのは
交響曲が大フィナーレを迎えるようでもあります。
これらのエピソードに光を当てつつ、とっ散らからずに終幕へと盛り上げていけたのが上田久美子先生の演出の手腕なのでしょう。
これまで「神々の土地」「霧深きエルベのほとり」といった芝居作品で
大階段を大胆に使っているのが印象的でしたが、演出家としてさらなる可能性の追求を見た思いです。
そしてトップスターの退団公演であった「神々の土地」がドラマチックかつロマンチックなストーリーで引っ張るものでしたが、
「fff」はストーリーのみに頼らない観念的な作品というのが交響曲というイメージに重なり、
かつこれらをを見せてくれたと感じました↓
・だいきほの新しい境地と関係性
・トップスターの代替わり
・組の集大成としての到達点
・退団者へのはなむけと過去作品へのオマージュ(彩凪翔の「春雷」など)
上田先生はご自身が思い描く作品を緻密に作り上げるイメージが強いのですが、
「霧深きエルベのほとり」で退団されたお兄様(七海ひろき)にはなむけを用意されたように、
退団者へのはなむけをきちんと意識されるのだなともあらためて感じました。
おそらく1回では観きれないくらいの情報量が取捨選択された上で舞台に表出しているでしょうから
世界史や音楽史の基礎知識、ベートーヴェンの作品の聞き込みなど予習なり前知識があった方が楽しめる作品だとも思いました。
苦しくても生きるということ
スルメ系たる所以のもう1つが観念的であることです。
ルートヴィヒ/望海風斗とナポレオン/彩風咲奈は想像上のやりとりをしますが、
これは2021年を生きている我々が俯瞰的に見るからこそ興味深いものです。
ナポレオンが語った理想のヨーロッパがその後どうなったかを見ているわけですから。
またゲーテ/彩凪翔は無線電話、あるいはモバイル機器を想起させてみせます。
これもその実現を知っているからこそおもしろいと同時に、
ナポレオンに時代が追いついていないことをこのような形で表現するのかと唸りました。
なによりも謎の女/真彩希帆の正体が人類の不幸であることが観念的たらしめている最大の所以でしょう。
自分は最初「謎の女はルートヴィヒの生きていくほど辛い状況を救おうとしている存在=死」
なのでは?と思いながら見ていました。
植田景子先生の「A Fairy Tale」がシシィの物語を再解釈していると思わせるように、
「fff」は上田久美子先生による「エリザベート」なのではないかと、
トートを娘役に、シシィを男役に振ったのでは?と思いながら見ていました。
その予想とは違うところに着地したのですが、
人間同士ではない上に恋愛関係でもないトップコンビ、それも娘役の方が観念的な存在であるというのは新鮮でした。
寄り添うのとも対立(「BADDY」のバッディとグッディ捜査官)ともまた違うトップコンビの新たな境地の提示であったと言えるのではないでしょうか。
そしてそれは全力で渡り合い高め合ってきただいきほだからこそ可能だったのでしょう。
追い詰められたルートヴィヒに問われた謎の女が自らの正体――人類のずっとそばにいる不幸を明かすとき、
口ずさむようにして歌います(正確なものではなくニュアンスでありまた一部です)。
私は
殺された兵士
母に捨てられた子
おかされた女
これに自分は宙組「FLYING SAPA」を思い出さずにいられませんでした。
本来であれば近い時期に上演されたこの作品はある意味で対をなしていたのでは…と思いました。
そしてルートヴィヒが謎の女を運命として受け入れ、最後の交響曲第九番を書こうと奮い立つのは、
争いと憎しみに終止符をうつことができず、ときに愚かなことをして、
自分自身ではどうしようもできない苦難に絶望しながらもそれでも人はこの世界で生きていく――そんな力強い讃歌が聞こえてくるようでした。
雪組生たちが白い衣装に着替えてタクトを振るルートヴィヒを囲んで歌う歓喜がそう思わせてくれました。
この作品では誰も幸せなその後を想起させる描かれ方をしていないのですが、
かといって悲惨さを取り立てる描き方もされておらず、
その人々がルートヴィヒとともに歓喜の歌を歌っているのがまたどんな不幸があろうとも生きるという力強さを強調していると感じました。
運命という新たな名前を得た謎の女がそれまでの不吉な気配をまとった黒い衣装から白い衣装となり、
ルートヴィヒの隣ではなく人々の輪の中で笑顔で歌っていたのもまた印象的です。
(自分は「FLYING SAPA」が見ていて辛かったので少し救われた気もしました。)
一方で第九が後世においてときに政治的に利用されていたこともまた、人類が常に不幸とともにあることを連想します。
高まった音楽のうねりが最高潮に強くなって迎える歓喜の終幕でした。
以上、ややとっちらかった感もありますが、初見の作品の感想でした。
キャストごとの感想も初見の思い出として書きたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。
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