映像の感想

【龍の宮物語 感想】名前をつけられない感情を考えるということ

こんにちは、ヴィスタリアです。

スカイステージで放映された星組「龍の宮物語」を視聴した感想です。

ヴィスタリアの独断と偏見と偏愛に満ちたもので作品の内容に触れている部分があります。

「龍の宮物語」言葉にできない感情を共有すること

指田珠子(さしだしゅこ)先生のバウホールデビュー作「龍の宮物語」は非常に完成度の高い作品で、「これは本当に宝塚歌劇なんだろうか」というふしぎな感覚がありました。

いい意味で宝塚歌劇らしくないと思ったのです。

完成度の高さ、宝塚歌劇らしくないという点は上田久美子先生の作品もそうですが上田久美子作品は宝塚歌劇らしさ、宝塚歌劇の枠や型を強く意識したゆえの反逆が特徴だと思います。
(たとえば「BADDY」は従来のショーの形式を従来にない見せ方をしています。)

「龍の宮物語」に感じた宝塚歌劇らしくなさはこの作品を外部の舞台で演じても違和感がないというフラットさでした。

宝塚歌劇ならではの完璧な美しさと夢々しさはもちろんあるのですが、たとえばシアターコクーンあたりで男性と女性の役者がキャスティングされ上演されることを想像したとき、セリフ、衣裳、照明に装置なども含めて宝塚歌劇の世界から移行することができるのでは、と思ったのです。

龍の宮に住む者たちーー龍神の兄弟をはじめ龍神に仕える者たちが舞台化粧・衣裳とも人間離れしていて非常によく工夫されていることもそう感じた一因かもしれません。

(古い話ですが自分がかつて「身毒丸」や野田秀樹作品を読んだり観た体験と重なるのかもしれませんし、夜叉ヶ池という演劇界で繰り返し扱われてきた題材ゆえかもしれません。)

このフラットさを強靭なものにしているのは登場人物たちの深い悲しみと愛憎のリアルさと言葉の美しさに他ならないでしょう。

舞台が進んでいくに連れて清彦/瀬央ゆりあの、玉姫/有沙瞳の、龍神/天寿光希の、山彦/天華えまの、炎遠理/天飛華音の、それぞれの深い悲しみや愛憎が降り続く雨のように貯まっていきました。

一つひとつのセリフの言葉の美しさと、生徒さんの表現の仕方、仕草の役を生きている確かさがあったから素通りすることなく貯まっていったのです。

しかもそれが一言のセリフであったり表情、仕草、纏う役の雰囲気に鮮やかに発露しているので物語の展開、人物の余白・背景の想像をかき立てられ深く引き込まれ、
クラスマックスより遥か前、起承転結の承あたり(清彦/瀬央ゆりあが龍の宮へ行くところから)から涙腺は危うくなっていました。

たとえば清彦/瀬央ゆりあが傘をさして振り返り遠くを見遣る表情。

たとえば玉姫/有沙瞳「悪党ならばよかったのにな」という一言。

たとえば龍神/天寿光希が酒盛りの遊びを見るときの片身を崩した座り方、声の遠さ。

「これはこういうことだ」と明確な言葉で言い切ったり「悲しい」という言葉では表現しきれない悲しみで、なぜだかわからない、名前のつけられない感情によって泣きそうになっているのを感じていました。

そしてそれは物語が進むにつれて大きなうねりとなって押し寄せてきてクライマックスは涙がぼろぼろ流れるままに見入っていました。

クライマックスでは清彦/瀬央ゆりあ 玉姫/有沙瞳の愛憎が大きなテーマとして迫ってきますが、このテーマだけに留まらず登場人物1人ひとりの悲哀、一言で表現しきれない深い物語世界を描き切った名作だと思います。

物語とはこの感情はなんだろうという問いかけを考え続けること、物語を通して自分以外の何者かと共有することなのだと思った幸せな作品視聴でした。

そしてこれが宝塚歌劇で、フィナーレがあって本当によかったです。
深く揺り動かされた感情が落ち着きましたしカーテンコールでは笑顔になることができました。

せおみほ(瀬央ゆりあ ・有沙瞳)のデュエットダンスが幸せそうであればあるほど清彦と玉姫の物語を思い出してまた泣きそうになりはしましたが、
フィナーレがなかったらずっしりと夜叉ヶ池の底に沈んだまま浮上できなかったでしょう。

今日の東京は雨が降り出して「龍の宮物語」を思い出さずにいられませんし、雨という言葉が想起するものが自分のなかですっかり変わったような気さえします。

キャストごとの感想は次の記事に続きます!

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