雪組「凱旋門/Gato Bonito!!」を観劇した感想です。
なにを隠そう(隠してはいませんが)ヴィスタリアのヅカファン生活のなかで初の雪組観劇でした。
たまたまなんですけれど、その機会をようやく得てB席最前列下手側から観劇しました。
「凱旋門」初演時はヅカファンだったのですが贔屓の組を追いかけるのに精一杯で、映像を見たはずなのですがほとんど覚えておりません。
なので今回が初見です。
今回の再演が決まったときから「再演するほどの名作なのかしら?」と思っていたのですが、見た上でもこの疑問は残りました。
でも18年ぶりの再演ですから、このくらいの時間をおいての再演ならあってもいいのではないかと思いました。
名作とまでは言い切れなくとも良作、佳作とは言えるのではないでしょうか。
なぜなら「凱旋門」のストーリー自体はすぐれているのではないかとヴィスタリアは思うからです。
第二次世界大戦に参戦する前のパリで息を詰めるようにして身を潜め、どうにかして生き抜こうとした亡命者たちをよく描いていると思うからです。
そこにラヴィックとジョアンの出会い、衝動的である意味享楽的な要素のある恋がアクセントとなっています。
これをラヴィックとジョアンのラブストーリーに焦点を合わせると、どちらのキャラクターにも感情移入のしにくさもがあって名作といっていいのか悩むのですが、亡命者の物語に焦点を合わせると、この感情移入のしにくさが生きてくるように思うのです。
これはヴィスアリアの私見ですが、この世界に生きているほとんどの人は自分とは気が合わなかったり共感ができないことの方が多いのではないでしょうか。
「なんでそんなことするの?」
「信じられない。自分だったらそんなことはしない」
と思うようなことをする人の方が、自分が共感できる人よりもずっと多いとヴィスタリアは思っています。
(共感はできなくとも、否定はしていません。多様性は自分が思っているよりも広いと驚くことが多いということです。)
なんせ「凱旋門」の主要人物は、共感しにくい個性の持ち主ばかりです。
ラヴィックにしても、ジョアンにしても、ボリスにしても。
(これについては各キャストの感想で触れたいです。)
でもだからこそ人間味や社会の多様性があり、共感できない登場人物の多いこの舞台は世界、社会の縮図のように思うのです。
その人たちが収容所に行くことになったというところに、どれだけ多くの人々が悲劇的な運命を辿ったのだろうかということが想像させられ、胸が苦しくなるのです。
幕切れがジョアンの死で終らず、ラヴィックが収容所に行くことを選び、それを見送るボリスたちが「いのち」を歌うシーンであることもまた、この作品の主点が亡命者たちのそれぞれの人生にあることの補強になっているように思います。
エピローグとしてジョアンとラヴィックのデュエットダンスがないのもまた然りです。
装置がすごいです。
盆回しのある舞台機構はなかなか無いですからある意味宝塚らしいと思いました。
袖で芝居、小芝居が展開するのもいいと思いました。
組には生徒さんがたくさんいますから、こういうところでも出番があるといいと思いますし、大きい劇場ならではの演出だと思います。
幕前だといかにも場面転換のつなぎのように見えますが、袖での小芝居は部隊の深みに繋がるように思います。
しかし演出は疑問が残る点もありました。
それはボリスの狂言まわしの台詞が唐突だったり、時間の流れが急だったりすることです。
唐突だと感じたのは、ラヴィックが工事現場で怪我人を手当して連行されるところや、ラヴィックがジョアンに入れ込んでいく様を説明するボリスの台詞です。
時間の流れが急だと感じたのは、ラヴィックとジョアンが出逢ってから3週間も会いにいかなかった、ラヴィックか国境の町で3ヶ月も足止めを余儀なくされた、といった時間の流れをボリスの狂言回しやラヴィックの独白で繋いでいるところです。
この方法しかなかったのだろうかという疑問を感じるのです。
これに説得力を持たせられるかどうかは狂言まわしのボリスと、ストーリーの主人公ラヴィックの力量にかかっているといっていいのはないでしょうか。
亡くなられた寺田先生の名曲もこの舞台を支える大きな、偉大な柱であると思います。
もし寺田先生の楽曲がなかったら、幕切れでこんなに涙を絞られることはなかったと思います。
「雨の凱旋門」も「いのち」もすばらしいです。
パララ パララ パララ〜♪にしても「いのち」にしても、すぐ覚えられて観劇の帰り道に口ずさめる音楽は宝塚のよさだとあらためて思いました。
シャンソンが散りばめられているのもいいですね。
物語の世界へ誘われ、酔いしれることができました。
キャストごとの感想は次で書きたいと思います。