観劇の感想

五月歌大舞伎「桜姫東文章」の感想

こんばんは、ヴィスタリアです。

今日は宝塚歌劇ではなく歌舞伎の話です。

五月大歌舞伎の三部「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」を観ました。

宝塚歌劇にどっぷりハマっている、そして歌舞伎を見始めたばかりのヴィスタリアの独断と偏見と偏愛に満ちた感想です。

感想というより観劇日記のようなものです。

「桜姫東文章」のあらすじと、出会い

仁左玉(片岡仁左衛門さんと坂東玉三郎さん)の「桜姫東文章」は
四月大歌舞伎で上の巻が、六月大歌舞伎で下の巻が上演されることになっています。

筋書に玉三郎さんの「お互いの体力を考えて」というインタビューがありました。

六月も同じ役者さんが揃うとのことですが今から待ちきれません。身が持たない!

清玄/釣鐘権助 片岡仁左衛門
入間悪五郎 中村鴈治郎
粟津七郎 中村錦之助
奴軍助 中村福之助
吉田松若 片岡千之助
松井源吾 片岡松之助
局長浦 上村吉弥
役僧残月 中村歌六
白菊丸/桜姫 坂東玉三郎

美しいポスターを買い逃してしまった…。

今回は玉様贔屓の母と一緒に観劇しました。

前回の仁左玉の「桜姫東文章」(1985年)から36年ぶりの上演で大きな話題になりましたが、
玉様贔屓の母はその前に観て以来40数年ぶりの観劇で歓喜していました。

前回の上演時は子育て(私の)真っ只中で歌舞伎どころではなかったんでしょう。

自分は歌舞伎を見始めたばかりの初心者で
二月大歌舞伎「於染久松色読売(おそめひさまつうきなのよみうり)」で仁左玉の濃くて美しい世界に浸り、
「桜姫東文章」もなんとしても見なくてはとチケットを取ったのでした。

コンビ芸のようなもの(2月歌舞伎「於染久松色読販/神田祭」仁左衛門・玉三郎)こんばんは、ヴィスタリアです。 寝ても覚めても宝塚歌劇に夢中なのですが、今日は宝塚歌劇の話ではなく歌舞伎の話です。 半年ほど...

「桜姫東文章」のあらすじ(歌舞伎演目案内)を予習していて「この話、知っている」と思ったのですが、
木原敏江さんの「花の名の姫君」を遥か遠い昔に読んだことがありました。


(kindle版のリンクを貼っていますがこのブログの書き手への利益にはなるものではありません)

漫画は母の蔵書でした。

4編の歌舞伎作品が収められていて表題作が「桜姫東文章」で、
4編の中でも特にコマ割りやセリフの流れが舞台の様子が目に浮かぶように描かれているのがわかります。

歌舞伎の舞台を2次元で表現しようと工夫されているのがページを繰りながら伝ってきます。

子どものころからリアルタイムの漫画を楽しむ一方で
母が実家に残していた漫画を読み耽って育ち、
その延長線上に宝塚歌劇があった自覚があります。

池田理代子、萩尾望都、木原敏江、大和和紀、手塚治虫といった宝塚歌劇でも上演された漫画家たちの作品や
石ノ森章太郎、大島弓子、竹宮恵子、三原順、山岸凉子の漫画たちが自分の内的世界を豊かなものにしてくれました。

それらを読み耽った母が昔過ごした部屋には
玉様の美しい写真やポスターが飾られていたのを覚えています。

とはいえ旧歌舞伎座時代に「弁天娘女男白浪」を
母に連れられて観たときは特に興味を持たなかった自分が
いつの間にか毎月の歌舞伎の演目が気になるようになり、
母のご贔屓の舞台を一緒に観る日が来るとは思いもしませんでした。

歌舞伎座の前で待ち合わせると、会社帰りの自分は普段着でしたが母は着物でした。

「桜姫東文章」の感想

今回は初めて歌舞伎座の一等席で観ました。

こんな席もう二度と座れないかも…いえ、また座れるようがんばります。

桟敷席と花道の間の最下手ですが、横長の舞台はふしぎと端でも見にくいとは感じませんでした。

感染症対策で売止め席があって1列に1人しか座っておらず、
自分と花道の役者さんの間に遮るものがなくて距離以上に近く感じました。

こんなに近い距離から役者さんを拝見するのは初めてで、
最初は清玄も白菊丸も肉体という入れ物の年齢や性別が生々しく迫ってきてはっとしました。

でもその70歳を超える年齢や男性であることを意識したのは幕開きのほんの一瞬で、
すぐに清玄/釣鐘権助あるいは白菊丸/桜姫にしか見えなくなりました。

また舞台に近い分声がすごいことも強く感じました。
2役の演じ分けが際立ちますしその役の人物にしか見えなくさせている大きな要素のように思いました。

(特に玉様の声は於染久松の土手のお六との違いもすごくて、どうなってるの!?)

桜姫/玉三郎は深窓のお姫様らしい品と大らかさと、
自分を押し倒した男が忘れられない情や欲の深さのギャップがたまらなく魅力的でした。

気品のあるお姫様が「おじゃ…」「たも…」という言葉で権助に縋るのがもう…たまらないいじらしさ、かわいらしさであり、同時に女でもあるというのに眩暈がしそうでした。

人を簡単に締め殺しても闇夜に女を押し倒しても何とも思わない釣鐘権助/仁左衛門
江戸言葉で、粗末な身なりでしょうにそれがかっこよくて、悪くて、粋で、凄絶な色気がありました。

裾をからげてしゃがみ、着物はゆるゆるの着付けでだらしないはずなのにかっこよくて、
裾から覗く脚などはなまめかしくさえ見えて目の毒でした。

そんな異色のカップルの組合せはおもしろく魅力であり、
2人の濡れ場は一つひとつが絵よりも完璧な美で世界で、
すごすぎてマスクの下で悲鳴を上げていました。

ここにこう持っていってこう見せるという型みたいなものがあるのかなと思うのですが、
それを見せつけられると「そうそう、それが見たかったんです」と自分の内側でわーっと沸き立つものがありました。

歌舞伎を見るとあまりにも巧くて芸を見ているのではなく役の魂を目の当たりにしていると思うことがあります。

清玄/権助と白菊丸/桜姫も役の魂に触れいてると思っていたのが
いつの間にか仁左衛門さんと玉三郎さんだけが成し得る世界に浸っているのでした。

この日はイヤホンガイドを借りていて幕間に仁左衛門さんが
「(玉三郎さんと)特にこうしよう、ああしようという話はしていない。ただ昔はよく喧嘩をして、幕が下りた途端に大声で言い合うなんてよくあった
と笑いながらお話されていました。

歌舞伎を見始めたばかりの初心者の自分でも一目見れば仁左玉のお二人が特別なのはわかるのに
特に示し合わせているわけでもないことの凄さ、組んでからの年月の長さなどに思いを馳せたくなります。

二幕はこの物語の二役の交錯、展開がおもしろくて純粋にわくわくします。

白菊丸を通り越して桜姫に執着するようになった清玄/仁左衛門の人間臭さ、
身をやつしていながらも気品があって情のにじむ桜姫が印象的でした。

清玄と権助の2役は断然権助がおもしろいと思っていたのですが、
桜姫への執着を隠さなくなった清玄の「桜姫やああい」と答えのない呼びかけは沁みました。

(あと赤子の鳴き声も。これはこういうものなの!?客席から堪えきれない笑いが漏れていました。)

数奇なめぐりあいとすれ違いの中で清玄と桜姫が雨の神社で行き違うの場面は
いまの明るい日本では考えられませんが闇夜の深さが違うんですよね。

清玄が火熾しの雨よけにさしかけた傘の和歌を
桜姫が階段の上から読んですれ違うのは舞台の構造・セットがあるからこそできることで、
漫画「花の名の姫君」では平面的なすれ違いになっていました。

仁左衛門さんと玉三郎さんのことばかり書いてしまいましたが
局長浦/上村吉弥のくどさと、たじたじの残月/中村歌六も楽しく、
奴軍助/中村福之助も印象的でした(なにが、と表現できないのですが)。

歌舞伎の長い長い歴史が続いていく中で仁左玉の「桜姫東文章」が36年ぶりに上演されて、
いま自分が同時代に生きていて「ぜひ見たい」と思い、叶ったことのめぐりあわせに幸せを感じました。

この大きな時代のめぐり合わせと、自分がいつの間にか母の愛するものを楽しむようになったことが重なって
さまざまな規模で宇宙的なものを感じた歌舞伎見物でした。

六月大歌舞伎の下の巻も楽しみです。

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