こんばんは、ヴィスタリアです。
宙組梅田芸術劇場「FLYING SAPA」のライブ配信を見ました。
いつものヴィスタリアの独断と偏見と偏愛に満ちた感想です。
また作品の内容に触れていることをお断りしておきます。
宙組「FLYING SAPA」無事の完走おめでとうございます
まず宙組「FLYING SAPA」が初日から千秋楽まで全日程を無事に公演できたことを心からうれしく思います。
千秋楽おめでとうございます。
宝塚大劇場で花組「はいからさんが通るが、東京宝塚劇場では星組「眩耀の谷/Ray」が陽性反応により公演中止となり、
8月17日に初日を迎える予定の雪組「炎のボレロ/Music Revolution!」も同様で公演がどのようになるのか見守っている日々のなか、
「FLYING SAPA」の全公演が無事に完走できたことがどれだけうれしかったか。
終演後のご挨拶ですっしぃ(寿つかさ)組長の穏やかで落ち着いた挨拶に「ああ、久しぶりの宙組さんだ」としみじみし、
この公演でご卒業される天瀬はつひちゃんのご挨拶にじーんとしました。
そしてゆりかちゃん(真風涼帆)が途中で涙をこらえながらのご挨拶には画面の前で胸が熱くなりました
常日頃から毎日の公演を大切にと心がけてきたつもりでしたが、1回1回の公演が貴重なものだとこれほど感じることはありませんでした。
絶対なんてない、この世の中でSAPAの世界を生きてチーム一丸となって駆け抜けてきましたが、簡単な状況ではない中でご協力をいただいて劇場まで脚をお運びくださるお客様がいてくださったからこそだと感謝の気持でいっぱいです。
また本日はライブ配信をご覧になってくださっているお客様もいらっしゃいます。このような時代だからこそ、心の中にある絶対を信じる私たちの姿が見てくださったお客様の勇気になればうれしいです。
宙組さんの公演の無事、すばらしい舞台に大きな勇気をいただきました。
東上しての日生劇場公演も無事に上演できますように。
上田久美子先生「FLYING SAPA」で見せた宝塚歌劇のフラット化
見終わった後に作品のテーマやエンディングのその後に思いを馳せつつ、一つの疑問が頭をもたげました。
「FLYING SAPA」は宝塚歌劇なのかということです。
宝塚歌劇団が上演しているのですから紛うことなき宝塚歌劇なのですが、宝塚歌劇の「らしさ」が徹底的に排除されているように思ったのです。
1.お約束の見せ場(歌・ダンス・スターの登場)、拍手をするタイミングがない
2.戦争・殺戮・女性が襲われるシーンが平然と描かれている
3.ラブシーンがどこまでもドライ
まずお約束の見せ場、拍手をするタイミングがないことについてですが、宝塚歌劇にはファンだったら「ここで拍手をする」というタイミングがありますし、
ファンの方が拍手を切ってきっかけを作ってくれたり音楽で「あ、ここで拍手をするのね」とわかるようになっています。
トップスターをはじめ主要な人物が登場するシーン、劇中の迫力あるダンスナンバーやデュエットなどがそうです。
しかし「FLYING SAPA」はそういったお約束の拍手のタイミングが一切なく幕が上がり下りるときが唯一の拍手する機会であったことはまるで外部の舞台のようだと感じました。
特に印象的だったのがノア/芹香斗亜とイエレナ/夢白あやがオバク/真風涼帆のモノローグのなかにするりと、忍び込むようにして登場したことでした。
二番手のキキちゃん(芹香斗亜)は一人で登場してスポットライトがあたって、客席はわかりやすく拍手をする機会が与えられるのが通常です。
三宅純氏を招いての一度聞いたら忘れがたい、世界観のある音楽はずっと流れていますし、印象的な歌はリフレインされますが主題歌もデュエットもなく、
ダンスもありますがけっしてナンバーではなく場面・状況の説明を補強するものという位置づけだと思います。
ストレートプレイではありませんがミュージカルではないし”歌劇”というより音楽劇に近いという印象を受けました。
これは出演者の少ない別箱公演だから可能なのことかもしれません。
本公演は出演者も多く見せ場、出番は必要ですし、実際に上田久美子先生は「神々の土地」「霧深きエルベのほとり」で大階段を使ったナンバーを用意しています。
2つめの戦争・殺戮・女性が襲われるシーンが平然と描かれていることは一層衝撃的でした。
最初にオバク・真風涼帆が躊躇なく銃を撃ち人を殺したシーンでははっとしました。
その後の戦闘シーンも日本物の立ち回りや様式美のあるものではなく殺すか生きるかの撃ち合いであり、殺す必要のない殺戮というべきシーンもあります。
なにより戦争において兵士が女子どもを襲うシーンが容赦なく描かれていたことには落ち着かない気持ちになりました。
外部の舞台なり映画なりではよくあるシーンですし現実にはいくらだってあったことですが、宝塚歌劇で目にすると動揺します(ヴィスタリアはかなりしました)。
そこに至るまでのストーリーのうねり、キャストの迫真の演技でなおのこと重たく感じられるのもあるでしょう。
花組「花より男子」でイジメ、暴力が描かれたときもすんなりとは見られなかったのですが、
「花より男子」は設定が現実離れしているので現代のファンタジーと割り切りやすかったです。
しかしFLYING SAPAはSFですが現実の社会で危惧していることが不吉な形でリアリティを持って描かれているので、ファンタジーとは思えないのです。
3つめのラブシーンがドライであることはオバク/真風涼帆とイエレナ/夢白あやとの同衾のシーンです。
布を使った、オブラートに包むような見せ方は宝塚的ですが、そこに至るまでの経緯に情緒が削ぎ落とされており、
オバクに恋情も思慕もまったくなく無味乾燥でさえあります。
「金色の砂漠」の床入りはちょっと直視できないくらい官能的で宝塚歌劇の限界まで挑んだシーンだと思っているのですが、
「FLYING SAPA」は宝塚歌劇のお約束を飛び越えていると思いました。
これほど直接的で乾いたシーンがこれまであったでしょうか。
ほかにもミレナ/星風まどかの娼婦の振る舞い、
タオカ/留依蒔世がミレナ/星風まどかに向ける即物的な視線も然りです。
「FLYING SAPAは宝塚歌劇なのか」と問われれば答えはYesですが、宝塚歌劇の王道かと問われればNoだというのがヴィスタリアの受け止め方です。
上田久美子先生は本公演月組「BADDY」で宝塚家劇らしさ、お約束を逆手に取ってみせ、この「FLYING SAPA」で宝塚歌劇らしさを取っ払って可能な限り外部の舞台とフラット化したのではないでしょうか。
外部の舞台ならふつうなことを宝塚歌劇においてふつうにやってのけたわけです。
これは別箱公演だからこそ可能なことでしょう。
盆・セリ・銀橋といった舞台機構がないことでかえって自由度が広がり、本公演とは違う照明・舞台セット・映像が表現しうるものがあるからこそ”らしさ”、”お約束”からも自由になれるのです。
「FLYING SAPA」は作り込まれた映像と絶え間なく流れる音楽がこの非現実的な世界をリアルなものとして訴え、客席を誘うのに欠かせないものになっています。
ニュース番組の砂嵐が流れる映像の使い方は言論統制が敷かれていることが伝わってきましたし、
1幕最後のミレナ/星風まどかのセリフからスクリーンにノイズ、インクの染みのような映像が広がり、過去の記憶が映像に映し出され舞台奥で展開するシーンの完成度の高さには唸りました。
見終えて「宝塚歌劇の王道ではない作品を宝塚歌劇でやる意味はなんだろう」「外部の舞台でもできることを宝塚歌劇でやる意味はなんだろう」ということを考え続ける一方で、
いま自分は宝塚歌劇を観劇することがそう簡単なことではないから王道に飢えているからこそそう思うのだと気づきました。
正直に、率直に書きますが殺戮、女性が襲われるシーン、娼婦の振る舞いやドライな濡れ場など剥き出しの表現を宝塚歌劇で見たくはないです。
見ているのが辛いシーンもあったのですが、この見たくないものから逃れられないというのはミンナに集積されたものを無理やり流し込まれるミレナの状況と重なるとも言えるでしょうか。
もしも観劇が日常に溶け込んでいた春に赤坂ACTシアターで「FLYING SAPA」を観劇したら新鮮に、シンプルに楽しみ宝塚歌劇の懐の深さ、幅の広がりに快哉を叫んでいたかもしれません。
プログラムに上田久美子先生がこんな言葉を寄せています。
「FLYING SAPA」は、本来の初日を迎えるはずだった3月の終わりから約4ヶ月の時を隔て、開幕します。
(中略)私達の「FLYING SAPA」は、もうあの時のものとは違うでしょう。
すべては上田久美子先生の術中に嵌っている気がしてきました。
作品の内容とキャストについては次の記事に続きます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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